2008年1月1日火曜日

9■las torcazas de Sausiyok

¡Justinay, te pareces a las torcazas de Sausiyok! 

En el cuento "Warma kuyay" Ernesto dice estas palabras cuando Justina termina de cantar. La elogia por cantar tan bien como una torcaza. Sin embargo estas mismas palabras pueden ser interpretadas como un cortejo: tienen cierto matiz seductivo. Justina lo capta y es por eso que rechaza a Ernesto de una manera algo violenta: “¡Déjame, niño, anda donde tus señoritas!” Es un rechazo también racial ya que con “tus señoritas” se refiere a las jóvenes mistis (blancas).

Arguedas, en otros cuentos, llama palomas a las torcazas. En “Hijo solo” aparece el siguiente párrafo:

Sabía que en los bosques de retama y lambras de Los Molinos cantaban las torcazas más hermosas del mundo. Desde centenares de pueblos venían los forasteros a hacer moler su trigo a Lucas Huayk’o, porque se afirmaba que esas palomas eran la voz del Señor, sus criaturas.

El bello canto de las torcazas se asocia a “la voz del Señor”. Además en este párrafo podemos notar que la palabra “hermosa” se aplica como uno de los atributos de la torcaza. No solo su voz sino también su figura atrae a las personas.

foto de una torcaza

2007年5月6日日曜日

8■el niño que creyó ser

アルゲダスの短編にはさまざまな名前の少年が登場するが、たいがい似たような境遇の少年である。フアン、エルネスト、サンティアゴと、作品ごとに名前が異なっているけれど、同じ少年であると言えなくもない。それらの少年のモデルは少年時代のアルゲダス自身であるから、似ていて当然か。しかしバルガス=リョサはさらに、小説はあくまでもフィクションであるという原則を指摘するのを忘れない。

Arguedas ha proyectado en ese personaje recurrente de sus relatos el niño que fue (o que, a la distancia, creyó o quiso ser),...
Mario Vargas Llosa: La utopía arcaica, p.90

2007年3月19日月曜日

7■Puquio

7■アルゲダスが父親に連れられてプキオ(Puquio)に移り住んだのは6歳の時である。父親はその年(1917)にPuquioの第一審裁判所の判事となり、近くのサン・フアン・デ・ルカナス(San Juan de Lucanas)という小さな町の大地主とも再婚している(3■を参照)。

アルゲダスはこのPuquioの小学校に入学したが、翌年(1918年)、San Juan de Lucanasの小学校に転校し、義母の農場で暮らしはじめた。10歳の時までその農場で使用人のインディオたちと寝起きを共にした。

1921年の7月には、とうとう義兄のいじめに耐えかねて、そこを逃げだし、父親の親戚が経営する農場(Hacienda Viseca)に避難した(1■,2■を参照)。

プキオは海抜約3,332メートルの高地にあり、ルカナス郡(アヤクーチョ州)の郡都である。プキオを一望できる写真はここに

2007年3月13日火曜日

6■Andahuaylas

6■アルゲダスの生まれたアンダワイラス(Andahuaylas)は、ペルー南部のアンデス地帯にある。
アプリマック州(Departamento de Apurímac)の海抜約3千メートルに位置する。リマから陸路で16時間ほどで行ける。

アプリマック州には郡(provincia)が7つあるが、アンダワイラスはそのうちのひとつの郡都である。現在はそう小さなまちだというわけではない。

アンダワイラスの写真がここに(Andahuaylas)。アルゲダスに捧げられた記念碑も見える。

2007年2月24日土曜日

5■el padre y la madrastra

5■アルゲダスの父親は Víctor Manuel Arguedas Arellanoといい、クスコの出身であった。母親はSan Pedro de Andahuaylasの名家の出で、Victoria Altamirano Navarroといった。ふたりは3人の子をもうけ、アルゲダスは次男だった。弟の出産後に母親は肝臓を患い、アルゲダスが3歳のときに亡くなった(1914)。

Juez de paz(治安判事)だった父親は、やがてjuez de primera instancia(一審担当判事)に任じられ、プリオ(Puquio)に赴任するが、ここで裕福な未亡人Grimanesa Arangoitia Iturbi viuda de Pachecoと恋におちいり再婚した。1917年のことで、アルゲダスは6歳であった。

未亡人には子ともが3人おり、プキオの近くのSan Juan de Lucanasの大地主だった。アルゲダス一家は最初プキオで暮らしたが、結婚の翌年、父親だけが比較的大きなまちのプキオにのこり、アルゲダスは2歳年上の兄Arístidesとともに農場に移り、そこで義理の母親と生活することになった。父親は週末だけ農場に帰った。

アルゲダスの写真。頬杖をついて新聞を読んでいる。

2007年2月13日火曜日

4■Utek'pampa

4■ウテフ・パンパは「水」という短編にも出てくる(つづりは、少し異なっているが)。

主人公の少年は、結びの場面で、救いをもとめて近くのインディオの村をめざして駆けていく。その村はウテフ・パンパである。

少年がこの村を頼みにする理由は、そこのインディオたちが、土地を所有し、気骨があり、農場主のドン・ブラウリオを恐れないからだ(Indios lisos y propietarios, le hacían correr a Don Braulio.)。

遠くに見晴らせるウテフの村について少年はつぎのように述べる――
Bien abajo, junto al río Viseca, Utek'pampa se tendía como si fuera una grada en medio del cerro Santa Bárbara.
Nunca la pampa de Utek' es triste; lejos del cielo vive: aunque haya neblina negra, aunque el aguacero haga bulla sobre la tierra. Utek'pampa es alegre

「ずっと下のほう、ビセカ川沿いにウテフ・パンパが広がっていた。草原は山腹に据えられた石段のようだった。
ウテフ・パンパはさびしげに沈みこんでいることがない。空からだいぶ離れたところに横たわっていようが、黒っぽい霧がたちこめていようが、はげしい雨が大地を叩こうが、ウテフ・パンパはいつもあかるいのだ。」
村の明るさと、そこに住むインディオたちの明るさとが共鳴し合う。人間とその環境が連関するという考え方その背後にある。

ウテフ・パンパの画像が見つかったら、ここにリンクを貼りたいと思う。

2007年2月12日月曜日

3■Utej pampa

3■アルゲダスは少年時代に、Utejというインディオの村の近くで過ごしたことがある。(UtejはUtec, Utek'ともつづられる。あるいはUtej pampaと呼ばれることもある。)

その村のインディオたちは、誇り高く、自立心がつよかった、とアルゲダスはいう。ミスティ(白人)たちや農場主に対して卑屈にならなず、堂々と相対した。その姿はアルゲダス少年の心をつよくとらえた。

ウテフの村は、アルゲダスの短編にしばしば登場する。「ウテフ・パンパ」("Utej pampa")というタイトルの短編もある。そこではこの村のインディオたちについて、つぎのように記されている――

Los utej no son indios humildes y cobardes, son comuneros propietarios. Entre todos, y en faena, labran la pampa, y cuando las eras están ya llenas, tumban los cercos que tapan las puertas de las chácaras y arrean sus animales para que coman la chala dulce, Utej es entonces de todos, por igual; el ganado corretea en la pampa como si fuera de un solo dueño. Por eso los utej son unidos y altivos. Ningún misti abusa así no más con los utej.

 ウテフの村人は、卑屈で臆病なインディオとちがって、自分たちの土地をもっていた。全員で農作業に出て草原をたがやし、脱穀場がいっぱいになると、畑の出入り口をふさぐ塀を倒して家畜を中へ入れた。家畜はそこであまいトウモロコシの皮を食べた。そのときウテフの草原は、みんなのものとなった。そして家畜たちも、飼い主がおなじだとでもいうように、草原を仲良く自由に走りまわった。そんなわけでウテフの村人たちは結束がかたく、誇り高いインディオたちだった。たとえミスティでも、ウテフのインディオにむちゃなことはできなかった。

2007年2月11日日曜日

2■la hacienda Viseca

2■アルゲダスの最初の短編集は1935年に刊行された『水』(Agua)である。文庫本くらいの小さな本で、3っの短編を収録されていた。表題作「水」のほかに「ワルマ・クヤイ」("Warma kuyay")と「小学生たち」("Los escoleros")。表題作には次のような献辞が冒頭に掲げられている。Visecaの農場での日々が、アルゲダスにとってどれほど大事であったのかがわかる。

A los comuneros y "lacayos" de la hacienda Viseca con quienes temblé de frío en los regadíos nocturnos y bailé en carnavales, borracho de alegría, al compás de la tinya y de la flauta.

ビセカ農場の村人や使用人にささげる。私は彼らと灌漑作業でいっしょに寒さにふるえ、カルナバル(謝肉祭)では、小太鼓や縦笛のしらべを耳にしながら、よろこびに酔いしれていっしょに踊った。

2007年2月10日土曜日

1■la quebrada de Viseca

1■アルゲダスが書いた最初の短編は「ワルマ・クヤイ」である("Warma kuyay", 1933)。冒頭の一文は、戯曲のト書きを思わせる。――「月夜の晩に、ビセカの谷間で(Noche de luna en la quebrada de Viseca.)。」

このビセカという谷は、アヤクチョ県のルカナス(Lucanas)から約8キロほどのところにある。そこにアルゲダスの父方のおじ(tío)の農場があった(おじの名前はJosé Manuel Perera Arellano)。

継母や義兄とうまく折り合えなかったアルゲダス少年は、継母の農場を抜けだして、このVisecaの農場に逃れた。1921年のことだからアルゲダスは10歳のころのことである。

アルゲダスはここで2年ほど暮らした。近くにアルゲダスの短編によく出てくるインディオの集落Utek'がある。

なおVisecaはBisecaともつづられることかあるようだ。